おじさんの年代になると、青春という言葉が懐かしくなります。
ノスタルジーと言ってしまえばそれまでですが、
取り返すことの出来ない「大切な時代」であることを知っているからです。
この青春時代に人や自然を愛すること、優しさを知った人は、
一生その気持ちを持ち続けることでしょう。
自分さえよければいい、他人を押しのけて生きてきた人は、
どれだけ年をとろうとも他人から好かれることは難しいでしょう。
この大切な青春時代に「友」と「師匠」を得られた人は、幸せな人生を選ぶでしょう。
おやじが親友と呼べるのは・・・一人。
18歳のときの出逢いでした。電話と年賀状のやりとりで、もう30年くらい会っていないかなぁ。
お互いに年をとり、子供たちが成人しました。軍隊ではありませんが「オイ、貴様」の仲です。
若いときの出逢いは「純粋」です。打算がありません。
利害関係もありません。青春の真っただ中で悩み、出口が見つからなくて右往左往していたときの仲間です。
夜明けまで語り合い、世の中の理不尽に涙し、恋の話をしまくったものです。
若い人たちが、「私には親友がいない」といって悩みますが、
親友がいても悩みは変わりません。
親友がいたから、いないから恥ずかしいという問題ではないと思うおやじです。
親友の存在が欲しいのであれば、一生懸命に生きることです。
悩みを共有するような環境にいることも必要でしょう。
「同期の桜」のように、同じ釜の飯を食い、汗を流し、
生活を共にするような環境が親友をつくると考えます。
くじけそうになったときに支え合う関係というのは、
お互いが相手のために自己犠牲ができるか、そんな関係でもあります。
自分にとって都合の良い関係から「親友」は出来ません。
勉強や働くという人間にとり、大切なことから逃げたり、
親や社会に反抗している仲間に親友を見出そうとするのは間違いです。
キズをなめあう関係に親友がいるはずがありません。
人間として何が正しいのか、そこから自分は相手のために何ができるのか。
間違った道にいるのであれば、引き戻そうとするのが「親友」です。
ラインで悪口を言われたから仲間を攻撃する・・・そんなときに「止める」のが友であるはず。
みんなですれば怖くないとか、かばい合うのは人ではなく「獣(けもの)」がすることだとおやじは考えます。
自分の心の支えとなり、苦しいときに思いだし、
生きる勇気を与えてくれる存在があればいいのでしょう。
師匠であったり、本であったり、学びを持つことです。
自分の存在が「親友」でもよいではありませんか。
天に恥じない生き方をするための「羅針盤」となれば・・・
軸を持つことが大切です。軸があれば、友はできます。