プロフィール

占いを信じるなと主張している開運アドバイザー
盛和塾岡山塾生
岡山政経塾二期生(卒塾論文は「子育てしやすい街づくり」)
おかやまデミカツ丼応援隊総務委員長
岡山ガーディアンズのビーン

明治大学法学部卒業後、凸版印刷(特殊印刷部門の企画営業)などを経て,当時、株式上場を目指す株式会社ウエスコに総務・株式事務担当スタッフとして入社。
上場・株式事務、支社・本社総務全般を担当。(有価証券報告者、召集通知、株主総会、指名願作成等)

上場終了後、転換社債発行までを担当し、家業のニホン全印会(西日本運勢研究会)を継ぐため、退職。
12年間の企業勤務生活にピリオドを打つ。
最終役職は、総務本部総務部総務課係長。

その後、三木照山をはじめ多数の専門家に師事。
姓名判断(鑑定・命名)、四柱推命、気学、家相、風水、方位、相性等を鑑定。
現在、二代目鑑定士として「占いは現実に役立て、人を幸せにするものでないと意味がない。占い業界は自ら変革すべき」という主張のもと、人を元気にする「技」としての占いが大切という視点からアドバイスしている。
また、本間正人氏本人より許可をもらい、コーチングの手法を取り入れたセミナーも実施している。

岡山政経塾二期生。(都市政策分科会 卒塾論文は「子育てしやすい街づくり」)

ニホン全印会と私の経歴
ニホン全印会初代は、財閥系都市銀行を経て有限会社ニホン全印会を設立。

子供としては、そのまま銀行の支店長になってくれたほうが楽だったかなぁ、とも思う。

ハンコ屋さんというのは、基本的な姓名判断の勉強をする方が多かった時代です。
また、昭和50年頃は全国的なブームもあったようです。
まぁ、会社を興す初代はわがままなキヤラの方が多いとは思いますが、やはり弊社の初代も一味違いました。

お墓のことはお坊さんに学んだり、姓名判断だけでなく四柱推命まで学び、運勢判断全般ができるようにと、「西日本運勢研究会」まで創設してしまったのです。

自分は東京・大阪の大御所に勉強に通い、自腹で講師を呼びました。それだけでなく、姓名判断、家相、墓相、四柱 推命などの勉強会を無料で毎週実施したのです。
毎回の参加者は20名前後。ただそれだけのために、大きな事務所を借りたのだから スゴイ。

おせっかいは血筋なのかもしれない。

本まで作るなど結構かっちりした研究会でした。だいたいが自分のことしか考えない 人が多い中では異色の存在です。過去も未来もこのような会は岡山には二度と出来ないと思います。

おやじのご紹介
  私は、1961年(昭和36年)3月に広島県福山市に産まれました。
  福山という街は、日本鋼管が進出したことで一気に人口が倍以上、35万人くらいまで増大しました。川崎など、他の地域からの流入は、広島県の中でも変わった風土をつくりあげたような気がしています。

  3月生まれ(誕生月のせいだけではないのでしょうが)の私の周りは、なぜか4月生まれの子供たちばかりでした。小さなころだと10か月の差は体格だけでなく、勉強もついていけない、何をやっても人並みにできない子供でした。
  筆算は1年遅れでの理解。小学校6年の終わりになって、やっとローマ字が読めるようになり「山田くんがついにローマ字を読めるようになりました」と担任の教師からホームルームで発表されるくらいの、いわゆる落ちこぼれでした。
もちろん運動オンチ。中学生でも体育は苦手。1クラス45人という時代、1学年13クラスあったマンモス中学校。中学3年になっても中1の後輩にスポーツで負けることがあるような、情けない中学生でした。
勉強はついていけない、運動もダメ。「コンプレックスの塊り」の思春期でした。
追いついたのは高校生になってからです。
学力は追いつきつつあり、体力面では「バドミントン部」に入りました。
当時はまだそんなに多くなかったバドミントン部でしたので、高校からスタートして競争の少ない部活にしよう、そんな負け犬意識で選んだのです。でも、それが私の人生のすべてに影響するきっかけ、出会いとなったのです。
バドミントンを先輩に教わるわけですが、「山田と組むのか」「おまえに教えるのか」とハッキリと言われるへたくそで情けない後輩でしたが、辞めずに踏ん張りました。
すると不思議なもので、広島県では個人戦ベスト8(個人 シングル・ダブルス)、団体では決勝まで勝ち進むチームの第2ダブル、第3シングルの選手となりました。
  根付いたコンプレックスは払拭できないものの、なんとか人並みに運動もこなせるようになり、その小さな自信が支えとなり、社会人になると実業団でも活動するようになるのですから、ホント、人の変化はわかりません。

大学時代は、地方から東京に住む大学生の標準的な生活だったと思います。
少しだけ違うとするのは、1年生のときに「山田くん、こんな会があるけれど、入ってみない?」と、同じクラスの可愛い女性から声をかけられたために入った「基礎法学研究室」でした。可愛い女の子に声かけられてという、不純な動機で入った研究室も、その後「駿台法科研究室」へと進み、大学4年のときには司法試験を受けました。これもご縁ですね。
頭が爆発するかと思った司法試験一次。当然のごとく一次で敗退。当時はデイパックに、基本書、六法、で一杯。ウォークマンは法律ゼミを聞きながら歩いていました。
出会いというきっかけから、どう伸ばしていくかで人生の楽しみが変わると感じた大学生時代でした。

就職活動をして社会人に。
個人営業、法人営業、企画営業を経験してから転職をしました。最後の6年間は総務として、株式上場事務を担当することになりました。本社総務、支社総務、指名願いの作成など幅広く経験できたことは、今でも役に立っています。
結果として約12年間のサラリーマン生活。長男だから「跡を継げ」ということもあり、家業である西日本運勢研究会(ニホン全印会)に入りました。
父は、自分の鑑定師としての経歴が独学に近いものであったためでしょうか、私には最初から教室に入って、カッチリとした鑑定師になれと、大手流派の教室に入れてくれました。
鑑定師になるために、たくさんの先生方について勉強しました。大阪、姫路、徳島、岡山・・・四柱推命や易など、先生により得意分野が違うものですから、得意分野を求めて勉強をしました。
普通の社会人が占いの世界に入ると、これまでとは異なる常識が出てきます。
だから「なんで?」にこだわりました。たとえば、「大殺界に根拠はあるのか?」「鬼門はいつ、誰が言い出したものか?根拠はあるのか?」といったことです。

占いは可能性を引き出すために使いたい
自分の実体験もあり、人間という生き物は個人差が大きく、15~18歳くらいまでは成長段階で「かたち」がまだ出来ていない。若い時代であきらめないでが、私の実感です。
 西日本運勢研究会では、小さな子供さんの運勢鑑定は基本的に引き受けていないのは、この考えが根底にあります。
子供もですが、人間って、いつ、変化、成長するかわからないのです。
ある出会いから劇的に変わったという方の事例は、皆さんの周りでも少なくないと思います。乳幼児の段階で「この子の運勢は?」と鑑定を希望される親御さんもおられますが、これらのご説明をさせていただき、どうしても出す場合でも、可能性に関するコメントを出すくらいにしています。

「四柱推命という占いでは、たくさんのことがわかるのではないの?」という問い合わせもあります。しかし、占いの基本が誕生した2000年前の社会と比べ、自分を活かそうとしたときにけた違いの可能性があるのが21世紀の日本です。
もはや、農家の子は農業、大工の子は大工という時代ではありません。科挙という制度がない21世なのです。
SMAPさんたちのような生き方は、たった35年くらい前では考えられませんでした。スポーツの世界だと、大リーグで活躍するイチロー選手、ダルビッシュ選手、田中マー君も、野茂さんという先人がいてこそだと思いますし、敗戦国である日本の選手がアメリカで活躍できるというのは、戦後の社会の変化があればこそです。
ゴルフの石川遼さん、松山さんたちにしても20年前ならいまのように活躍ができる場が与えられたでしょうか? 
生活していくための可能性、世の中の選択肢が飛躍的に増大しました。戦前では女性が働くことは、どのようにとらえられていたか・・・これからは政府の大臣、企業の役員にも女性が活躍する時代なんです。
占いの世界も2000年前の解釈で通用するでしょうか?
また、ビル・ゲイツさんのように社会システムを変革する人が出てきますと、これまでとは異なる価値観により、新しい雇用、新しい社会の受け入れ受容が変化していきます。
その人の持つ能力が占いでわかったにしても、活かせる場面が数千倍もある現代ですから、占いは「こうである」という方向よりも、可能性を語る方向にシフトしていくべきだと考えています。