運、年回り、生き方について考えてみませんか?

「運」とは?
占い師が語る運と運命、皆さんがイメージしている運と運命。これらに違いがあるとしたら、良いことにならないと思います。
基本的な考えについて、ご説明させていただきます。

運はあなたの生き方で引き寄せるもの
運って、なんでしょう?
一般的には私たちの想い、努力以外のところで良いことが舞い込んできたり、ラッキーなことが起きたときに、私たちは「運がいい」と思うはず・・・
日常生活でも「あの人は運が良い」とか、「今日の自分はツイてなかった」など、どこかで意識しているのが運です。なにより「運が良くなるといいな」と、みんなが願っています。
どうすれば運が良くなるのでしょう。

ご紹介したい文献
中国の古典が教える運命の考え方について、「陰騭録(いんしつろく)」をご紹介させてください。
陰隲録という中国の本の中に「袁了凡(えんりょうぼん)の教え」という話があります。
まず、このエピソードについてご紹介させていただきます。なにより、運命というものは自分の意志で変えることが出来るものだという、本来の占いの考え方を知っていただきたいと思います。

明の時代、中国に袁了凡という少年がいました。
袁了凡は、お父さんを早くに亡くしたので、母の手で育てられました。家庭は裕福ではなかったために、将来の生活について袁少年はいろいろと考えながら勉学に励んでいました。
当時、中国の知識階級では進士の試験を受けて、これに合格することが人生の成功者として考えられていました。(少し前の日本だと、東大を出て大蔵省というイメージに近いかもしれませんね)もちろん、とても難しい試験でもありました。

予備試験(郷試)という郷土で行う試験に合格してから、中央官庁の最も難しい試験に合格して進士の称号を得ることができます。今の私たちが考える公務員試験とは比較にならないような難関だけに、価値と意義がありました。
なにより、出世を目指す若者の最高の目標だったのです。
しかし、袁了凡は生活が豊かではありませんので、知識階級の若者がチヤレンジするように、進士の試験の準備をする暇がとれません。

その時代、知識階級の者が立身出世の道を立てる方法として、医者になることも選択のひとつでした。袁了凡少年は早くお金を稼いで母に楽をさせたいという考えから、医者になる勉強に切り替えました。
ある日、立派な風貌をした老人が、袁少年を見て「何を勉強しておるのか」と尋ねました。袁了凡少年は「父が他界したため家が貧しいのです。早く立身しなければならないので、母と相談をして、医者になろうと勉強しています」と答えました。
すると老人は、「あなたは、立派な役人になるし、出世する。進士の試験にも及第する。だから進士の試験の準備をしなさい」と伝えました。
また、あなたの生涯を占ってみようと言い「勉強すれば、何年、何歳の時に予備試験を何番で合格し、本試験は何番ぐらいで合格する。そしてどういう出世をして、何歳で寿命が尽きる。大変気の毒であるが子供には恵まれない」などの予言をしました。

袁少年はその占いに感動して、進士の予備試験の準備に勉強を切り替えました。
すると、老人が予言したとおりの成績で合格。次の試験に関しても、ことごとく老人の予言の通りとなるではありませんか。
袁少年は、「なるほど人間には運命というものがあるのか。これまで自分にはわかっていなかったが、自分の一生はこのように決まっているのか」としみじみと感じていきました。
「運命が決まっているのであれば、努力したり、悩んだり、あれこれ考えたり、野心を持つのはバカらしいことじゃないか。運命の流れに逆らうのはやめてしまおう。もがいてもどうにもならない」という諦めの気持ちになりました。
その姿勢は周りから見ると悟った人物と受け取られました。

本来であれば、社会に反発したり生意気だったりする青年時代であっても、袁了凡は運命の通りに生きていくだけだと、ある意味において達観しています。羽目を外すこともなく淡々として、まるで仙人のような悟ったような落ち着いた雰囲気の青年となりました。
この姿勢が周りから見れば、若いのに出来た人物だという評価になりました。
ある時、袁了凡は南京のお寺に滞在して勉強しておりました。

そこに雲谷という禅師がいて「あの若者はなかなかの評判だ。若いのによく出来ておるようだ、どのような学びや修行をしたのだろうか」と興味を持ちました。そこで「あなたは、お若いのに良い風格をお持ちだ。人物が出来ているようだが、一体どのような学問や修行をしたのか」と尋ねました。

すると袁青年は「老子。私は特別な勉強も修行もしておりません。少年時代に、不思議な易者が私を見て、私の人生はこのようになると予言をしてくれました。それが的確に当たりますので、私は人間には運命というものが決まっているものだ。いろいろと悩んだり、考えてみてもどうしようもないということに気がついたのです。ですから青年の煩悶をやめました。その考え方のおかげでお眼にとまったのかもしれません」と答えました。

雲谷禅師は、その場で大笑いをしたのです。
「何と、そんなことで達観しておったのか。それでは昔から偉人、聖人が何のために学問や修行をしたのか、まったく意味がないではないか。なんで釈迦や孔子が苦労したのか。偉大な人物が学問を積んだのは、修養することによって、人間を創ることが出来るからだ。自分の運命は自分で創っていくものでなくてはならないのだよ。
人間を創るのが大自然、道の妙理、極意ですぞ。
あなたの理屈では偉人、聖人の学問修行は何にも意味がないことになります。
それにしてもおかしな悟りを持ったものです。
確かに人間には運命というものがあります。しかし、運命は変えることが出来るのです。私たちがどこそこの土地に産まれたこと、男や女という性を持つように、変えられないのが宿命です。運命のある部分は前世の行いによって決められている部分があるかもしれないが、それは現在の努力で良い方向に変えられるものなのです。
自分の人生を創造的に生きなさい。修行をしなさい。善きことを思い、良き事を行えば、あなたの運命は変るのです」と諭しました。
これに驚いた袁青年は反省をしました。
自分の運命を変える事を決心します。

それから改めて賢人に学び、学問に励んだところ、それ以降というものは、いままで何一つ外れなかった老人の予言がすべて外れるようになったのです。
自分の進歩向上、出世の道も新しい展開が開けてきました。やがて出来ないと言われた子供もできました。そこで晩年に子供達への教訓としてその経緯を書いて残しました。
これが陰隲録(いんしつろく)のエピソードです。

おそらく多くの占い師の先生方は、このような中国古典の勉強をしているはずです。
なんせ、自分たちの占いの根本理念ですから、その魂を知っておかないといけません。
ご紹介した陰隲録が私たちに教えているのは「人間というものは、運命を自分の努力によって転換することができる」ということです。
謙虚、積善という道徳的な生き方が、運を好転させます。運命をただ放置していてはいけないということなんですね。
ですから、占い師は「運命を語って」はいけないのです。

「運命を創るために必要なアドバイス」が鑑定師の役目ということなんです。

堅い話題が続きますけれど、もうしばらく我慢してください。

次に「易経」について、少しご紹介します。
易経は、「四書五経」の中のひとつ・儒教を根本とする古典であり、帝王学の書とも言われています。易経には占いについての方法が書かれていますが、一方では「君子占わず」の考え方も書かれています。
これは、君子として人の上に立ち、民衆を導く者は、易経をよく学びなさい。そうすれば、占いをしなくてもこれから起きるであろう出来事や出処進退を見極めることができるようになりますよ、と教えているのです。
「易経」は、私たち鑑定師・占い師の根本理念です。易経は見えないものを見れる眼を養うようにしなさい、聞こえない音を聴く耳を持ちなさいと教えています。
占いの理念たる書であるのに、「占わなくてもわかる」というのは不思議に感じると思いますが、これが易経の教えです。

ちなみに易経の英語訳は「Book of Changes」 直訳すると「変化の書」です。
私たち鑑定師・占い師が述べる易というのは、限りない変化のことを指しています。
「易」は変わる、つまり、万物はすべて「易」ということです。
私たちが「こんな日本に産まれたくなかった」と言っても仕方がありません。
「産まれた」ということを受け入れて、どのように生きていくかを決めて努力することが大切です。人間という生き物は、生きている限りこの人生において悩みは尽きません。
幸せに生きるための知恵が「易」です。それゆえに、占いは「良い」とか「悪い」という判断や区別をしないということを確認しておきたいわけです。

「天」が、変化を続けているのですから、人間の運命も常に変化します。予定されているということが矛盾してきます。意識することで、運命は変えていけるということです。
つまり、私たち鑑定師・占い師は運命を決めることは出来ません。
良い運命を引き寄せるための知恵、応援してくれる環境をつくる生き方をアドバイスすることが、鑑定師・占い師の役割です。
自分の人生をいかに変えていくかが「易」です。易者に運命を決めてもらうことは良くないことなのです。
人生は難しいから面白い。良くない縁を切り、徳を持てば運が開けると考えます。
運命とは、自らの命を磨いていくことです。
天才は努力することにおいての達人を指すのでしょう。努力しない人は寂しい人生を選んでいることになります。
よくないこと、災厄を呼び込むのはほかでもなく、自分の命を磨かないことが、その始まりとなるのです。

運をあげていくために知っておいていただきたい原則があります。
「因果(原因と結果)の法則」です。
善いことを思って善いことをすれば、善いことが起きます。
悪いことを思って悪いことをすれば、悪いことが起きます。

「世の中には善いことをしても、報われていない人がいる。悪いことをして、お金を稼いでいる人もいる」という意見もあるでしょう。
「一時的には」そうかもしれません。しかし、地位を利用した政治家や偽装をした会社の末路はどうでしょう。悪い事って続かないのです。

さて、人物において、一流と二流違いはどこにあるのでしょうか。
それは、「自分との闘い」にするのか、「他人との競争」にするのかの違いと、私は習いました。ちなみに、何者とも闘わない人物は三流ということです。
歴史を学べば、賢人・偉人が家庭環境に恵まれていたでしょうか。苦しい環境にあっても、逃げることなく闘ってきたから命が磨かれ、歴史に名を残したのだと思います。

環境が人を創ります。
人が一人前になると「大」(人+一)
大人であれば、後輩の見本として「徳を身につけた」生き方をしたいものです。

資料として
因果応報の法則
釈迦が説かれた「因果経」(いんがきょう)には、「過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」とあります。
過去の種蒔き(自分の言動)を知りたければ、自分の現在の環境を見なさい。つまり、現在の自分は過去の自分の行動の結果ということです。
自分がこんな状況にあるのはあの人のせいだ、社会が悪いからだと他人を恨んでいる限り、自分の心は楽になりません。現在の自分は、過去の自分がつくりあげたのです。
未来にどのような結果が出るのかを知りたければ、現在の自分がどのような種蒔きをしているかを見なさい、と教えています。自分が他の人たちに対してどのように接しているのか、人を憎んで、愚痴を言ってばかりだと未来は暗くなるだけです。
現在が苦しいならば、心を入れ替え、善い事をしていけば未来は必ず変わります。
どんな事にも原因があります。善い事をすればよい結果が生じ、悪い事をすれば悪い結果が生まれるのです。原因なしに起きる結果はありません。
では、幸福や不幸は何によって決まるのでしょう。
「善因善果、悪因悪果、自因自果」 善い種を蒔いて悪い結果は起きません。蒔いた種と同じものしか生えてこないわけです。幸福という運命は、善い行いが生みだしたものであり、不幸や災難は悪い行いが引き起こしたものと釈迦は教えたわけです。
人生は、心が思うような展開となるものです。思っていることは言葉や行動になって出るからです。心のあり方を変えた瞬間から、人生に転機が訪れるようになります。最初に「出逢い」が変化してきます。これまでの悪循環を断つためには「自分の意志」を正しい方向に向ければ良いだけなのです。
自分に起きる出来事は、自分の心が呼び込んでいるのですから、運命を変えていくためには、自分の可能性を信じて、未来のために努力を続けることです。
努力を積み重ねれば、平凡は非凡に変わります。

運の良い人について考えてみよう
生きている限り、私たちは運がよいとか、ツイていないとかを考えています。
運というものは、誰にも公平にあるはずです。
運が良い人はその運を探し当てたり、引き寄せるのが上手な人であり、不運を幸運に転換できる人のことです。
占いの本に限らず、世間には「運の良い人」についてたくさんの書物があります。
運が良いと言われる人たちには、共通の意識・考え方や行動の特徴があります。
つまり、運が良い人は、運に恵まれているのではなく、より努力することで良い生き方をしていこう、地域や他人の為に汗を流そうとしています。
彼らのエッセンスを取り入れるだけで「開運」が近づくのは間違いありません。
何かありがたい「モノ」を購入するのではなく、「生き方」で運を引き寄せていきましょう。